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行列のできていた店

 事務所のすぐ近く、3分ほど歩いたところにDというお寿司屋さんがあります。
 何という番組か忘れましたがタカアンドトシ外4名くらいの人が、人気店を訪ねるという番組があり、私は、偶然そのテレビ番組を見たのです。
 「ランチで、にぎり盛り合せが500円。銀座で信じられないほど安くてうまい店」という触れ込みで出演者が、D店で500円のランチを頼み、「ウマい、ウマい」と言いながら食べたのです。

 私は、次の日、事務所の弁護士仲間に番組の話をし、皆でD店に行ってみることにしましたが、やはり、長い行列ができていました。余りにも行列が長いので、その日は諦めて別の店に行きました。そして、次の日、11時40分ころに行くと、少し並びましたが、運よく入ることができました。
 4人で「ランチ1つずつ」と頼みますと、大将は、「味噌汁も頼みなさいよ」というのです。味噌汁は、200円。「まあ、それでも700円だから、いいか」と言いながら頼みました。しかし、店の壁には、「味噌汁200円 のめ!!」と書いてあるのです。大将は、「味噌汁を要らない」と言った女性客に対して、「そんなら来なくていい」と言っていました。
 このように、大将のお客に対する態度が横柄で、感じが悪かったです。

 4人とも同じようにD店の接客態度の横柄さを感じたのか、それから誰も行こうとは言いません。
 1か月後、D店の前を通りましたが、もう行列はできていませんでした。そして、2か月後、12時10分ころに通りましたが、行列はもちろん無く、店の中には空席がありました。
 テレビ番組に取り上げられたことは、D店にとって大きなチャンスだったと思います。このチャンスを生かして低姿勢で、心のこもった接客をしていれば、きっと、今でも行列はできていたでしょう。
 大将(店主)は、テレビに出て長い行列ができたことで有頂天になり、お客に対して横柄な態度をとり、自ら行列を無くしてしまったのでしょう。

 弁護士 田中 清
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十返舎一九の辞世の句

十返舎一九は、弥次喜多道中の「東海道中膝栗毛」で有名ですが、膝栗毛というのは、自分の膝を栗毛の馬の代わりに使って歩くということで、「徒歩の旅」を意味するそうです。
 十返舎一九は、日本で最初に文筆で生計を立てた人ということですが、町奉行の同心の子供として生まれ、父親の跡を継いで、奉行所に勤めました。しかし、大坂に勤務したときに武士を辞めて、江戸に舞い戻り、食客をしながら小説を書いて生計を立てていたそうです。
 東海道中膝栗毛の最初の宿は、戸塚の宿、2日目は小田原、3日目は箱根で、平均すると1日約33㎞だそうです。昔の人は、かなり健脚だったのですね。

 十返舎一九の辞世の句が面白いので紹介しましょう。

 この世をば どりゃおいとまと 線香の 
    煙とともに はい左様なら

なんとなく、ほっとするような辞世の句ですね。

 弁護士 田中 清

三毒その3 愚痴の心

貪瞋癡(とんじんち)の三番目の「癡」(ち)は、「愚痴の心」のことで、「道理をわきまえない愚かな心」のことです。「全てのことを自分の思い通りにしたい」「自分だけは年を取らず病気にならずいつまでも生きていたい」などの我儘な心のことです。この愚痴の心は「無明」とも呼ばれ、迷いの心の根源とされています。愚痴の心から貪りの心がおこり、貪りの心あるところには必ず怒りの心がある、というように三毒が出そろい、さらに様々な煩悩に枝分かれしていくと言われています。

 愚痴の心は、「道理をわきまえた明らかな知恵」により、治します。
 自分の好き嫌いに合わせて世界が回転している訳ではないから、道理をわきまえて道理に自分を合わせることが大切になります。
 白隠禅師は、次のような歌を詠んでいます。

 「よきも悪しきもよそより来ぬぞ 迷う我が身の心より」
 「死ぬもめでたい生きるもめでた とかくこの世は仮の宿」

 貪瞋癡(とんじんち)は、多かれ少なかれ人間の心の中に巣くうものですが、なるべく、貪瞋癡(とんじんち)を心の中から無くし、貪瞋癡(とんじんち)のない平穏な心、無明の心で過ごしていきたいものです。

 弁護士 田中 清

怒りの心

 二番目の「怒りの心」は、自分の嫌いなものに対して反発したり、腹を立てたりする心をいいます。仏教では「怒り」を「瞋り」の字で書きあらわしまず。怒りの心が、どのぐらい自分自身を苦しめるかは、喧嘩をした時の不愉快さを思い出してみればよいでしょう。怒った方も、怒られた方も不愉快になります。そして、これが高じて、怒りが恨みになってしまうこともあります。
 怒りに対してはひたすら「耐え忍ぶ」ことです。反省して改めれば比較的退治しやすい煩悩と言われています。自分の気に入らないことがあっても、腹を立てずに冷静に対処することです。

 昨年12月に、このブログで「ふぐや」の話を書きました。「ふぐや」で誤って輪ゴムが入っていたときに、私は、店員に「こんなの入っていたよ」と言ったのです。店員が恐縮して後で「フグのから揚げ」をサービスで持ってきてくれました。お勘定のとき、私は、店員に「また、輪ゴムを入れといてね」と冗談をいうと、一緒に食事をしていた2人と店員が大笑いし、なごやかに店を出たという話です。何人かの私のブログの愛好者に「あの話が一番面白かった」と言っていただきました。
 このとき、もし、私が腹を立てていたら、どんな結末になったでしょう。仲間も、店員も、そして、私も、不愉快になって店を出たでしょう。そう思うと、「怒りの心」 が、どれだけ人の心を荒廃させるかが、よく分かります。

 白隠禅師は、次のような歌を詠んでいます。
 「人に対して腹立つときは 早くおのれが愚痴と知れ」
 「人の善し悪し眼に立つうちは 恥じて修行に精出しゃれ」

 弁護士 田中 清

三毒(さんどく)その1 「貪(むさぼ)りの心」

 懺悔偈(ざんげげ)の中にある貪瞋痴(とんじんち)を三毒と呼んでいます。貪瞋痴(とんじんち)とは、「貪りの心」「怒りの心」「愚痴の心」の三つを、人間をいちばん苦しめる毒薬という意味で「三毒」とよんでおります。
 一番目の「貪(むさぼ)りの心」とは、自分の好きなものに執着し、欲のために心が病気になることです。
 「知者も善者も浮き世を見るに、色と金には皆迷う」とあるように、色と金に迷う人がいちばん多いようです。
 「欲を心から離れてみやれ 何がなくとも充分じゃ」ということになります。つまり、色欲と物欲が人間を苦しめているのです。

 「貪(むさぼ)りの心」は、「こだわりの心」ではないでしょうか。
 この欲から離れて「空の心」すなわち、「何事にもこだわらない自由な心」になったときは、非常に楽になることが分かります。「なぜこんなことにこだわっていたのだろう。」と自分で馬鹿馬鹿しくなるくらいです。般若心経の「色即是空 空即是色」の「空の心」もこのような状態をいうのかもしれないと、自分で解釈しています。
 例えば、出世欲もそうだと思います。出世欲が強い人は、自分で相当苦しいだろうと思います。それは、自分の実力以上に出世したいと思うからです。しかし、「自分の実力とおりで良い」と思うだけで、非常に気が楽になります。

 般若心経の日本語訳として、
   かたよらない心、
   こだわらない心、
   とらわれない心、
   広く広くもっと広く
   これが般若心経
   空の心なり
と訳している本があります。
 まず、「貪(むさぼ)りの心」を捨てたいものですね。しかし、小さな「貪(むさぼ)りの心」が満たされたとき、大きな幸福を感じることも確かです。
また、これが人間の性(さが)なのですね。

弁護士 田中 清
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