三国志の魏の国王曹操の墳墓について
中国河南省安陽市で2005年の発見された陵墓の埋葬者が、三国志魏の国王曹操であることが河南文物考古研究院の1年以上にわたる調査によって最近明らかになったそうです。
同研究院の遺骨のDNA鑑定や副葬品、共同埋葬者の身元などから曹操の陵墓であると断定したということです。
この陵墓は、面積が700㎡(約212坪)以上もあることや、内部の副葬品が400点に及び、埋葬されている人物の遺骨から60歳以上であることなどから曹操の墓である可能性が高いと考えられたのです。
記録によれば、曹操は生前、「自分の陵墓は質素なものにせよ」と後継者である息子の曹丕に指示していましたが、曹丕は曹操の指示には従わず、かなり大規模で贅沢な陵墓を建設したということです。
同じく呉の国王孫権の墓も見つかっておりますが、南京にあるその墓は、目立っておらず、公園の片隅にひっそりとあるそうです。
次に、蜀の国王劉備玄徳の墓は、成都市内の大きな通りである武侯祠大街に面して「武侯祠」があり、正面入り口に「漢昭烈廟」の額が掲げられていており、ますが、「昭烈」は、劉備の諡号ですので、劉備玄徳の霊廟であることが示されているのです。「武侯祠」の祠は、諸葛孔明のことですので、この場所には劉備と、諸葛孔明の二人が同時に祀られているということになります。
魏志倭人伝から明らかなとおり、この時代(239年)には、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の国に朝貢し、男女の生口(奴隷)や織物などを献上し、魏の皇帝は、「親魏倭王」の金印や銅鏡など莫大な下賜品を与えました。
しかし、女王卑弥呼の墳墓は、まだ見つかっていませんし、北九州説と大和説に分かれ、今でも激しい論争が続いております。
邪馬台国と三国志は、同じ時代なのにです。
早く、卑弥呼の墳墓が見つかってほしいですね。
弁護士法人銀座ファースト法律事務所 弁護士 田中 清
同研究院の遺骨のDNA鑑定や副葬品、共同埋葬者の身元などから曹操の陵墓であると断定したということです。
この陵墓は、面積が700㎡(約212坪)以上もあることや、内部の副葬品が400点に及び、埋葬されている人物の遺骨から60歳以上であることなどから曹操の墓である可能性が高いと考えられたのです。
記録によれば、曹操は生前、「自分の陵墓は質素なものにせよ」と後継者である息子の曹丕に指示していましたが、曹丕は曹操の指示には従わず、かなり大規模で贅沢な陵墓を建設したということです。
同じく呉の国王孫権の墓も見つかっておりますが、南京にあるその墓は、目立っておらず、公園の片隅にひっそりとあるそうです。
次に、蜀の国王劉備玄徳の墓は、成都市内の大きな通りである武侯祠大街に面して「武侯祠」があり、正面入り口に「漢昭烈廟」の額が掲げられていており、ますが、「昭烈」は、劉備の諡号ですので、劉備玄徳の霊廟であることが示されているのです。「武侯祠」の祠は、諸葛孔明のことですので、この場所には劉備と、諸葛孔明の二人が同時に祀られているということになります。
魏志倭人伝から明らかなとおり、この時代(239年)には、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の国に朝貢し、男女の生口(奴隷)や織物などを献上し、魏の皇帝は、「親魏倭王」の金印や銅鏡など莫大な下賜品を与えました。
しかし、女王卑弥呼の墳墓は、まだ見つかっていませんし、北九州説と大和説に分かれ、今でも激しい論争が続いております。
邪馬台国と三国志は、同じ時代なのにです。
早く、卑弥呼の墳墓が見つかってほしいですね。
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