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鉄砲伝来とポルトガルとの交易(室町時代後期)

日本がヨーロッパの国(ポルトガル)との交易を始めたのは室町時代からでしょう。

1543年、種子島に漂着したポルトガル人は、鉄砲を日本に伝えました。
日本人は、鉄砲を分解してその一つ一つを分業でたくさん作り、それを組み立てることにより、大量の鉄砲を作りました。前のブログでも書きましたが、戦国時代末期、日本にあった鉄砲の合計は30万丁と言われております。また、この時代にヨーロッパの鉄砲の合計も30万丁だったと言われておりますので。

鉄砲伝来からわずか50年で、日本は、ヨーロッパの鉄砲の合計数と肩を並べたのです。
 ところで、ポルトガル人は、毎回ポルトガルからわざわざやってきたものと思っておりましたが、実は中国の明の国のマカオに拠点を置き、倭寇(後期)の案内役により日本の国に辿り着き、中国から陶磁器や生糸、絹織物などを日本の国に持ってきて、日本から世界遺産になった石見の銀山から算出する銀を輸出していたそうです。当時石見の銀の産出量は、世界で取れる銀の3割もの量だったと言われております。

 ポルトガル人は、マカオに本拠を置き、日本とマカオ(明)を往復するだけで、莫大な利益を得たというのですから、ポルトガル本国に帰る気になりませんね。

 ところで、上記に種子島に漂着したポルトガル人と書きましたが、倭寇の案内によって種子島に来たのですから、「漂着」とは言えないかもしれませんね。
 そして、案内役の後期倭寇は、中国人7割、日本人3割だということですので、びっくりしました。室町時代の初期の前期倭寇は、100%日本人で、正に近海を荒らしまわる海賊であり、明からは、「北虜南倭」と呼ばれ、北のモンゴル人、南の倭寇は、明にとって大変厄介な存在だったようです。室町三代将軍足利義満は、明の皇帝から、倭寇の鎮圧と引き換えに貿易を許されたというので、倭寇(前期)は、本当に困った存在だったのでしょう。

 次回はキリスト教伝来と外国人から見た日本人を描くことにしましょう。

 銀座ファースト法律事務所 弁護士 田中 清

日本の発酵食品

発酵食品は、健康に良いとされています。

「納豆」も発酵食品ですが、韓国のキムチも発酵食品であり、両者とも代表的な発酵食品であり、健康食品の両横綱とも呼ばれています。

日本は、発酵食品の種類も多く、美味しいものが多いです。「ふなずし」(滋賀県)、「くさや」(伊豆諸島)、「なれずし」(和歌山県)、「いぶりがっこ」(秋田県)などです。私は、すべて食べたことがありますが、「くさや」と「ふなずし」は、特に食べにくいです。しかし、最初は抵抗がありますが、慣れてくるととてもおいしく、忘れられない味になるのです。

 石川県の特産の「フグの卵巣の糠漬け」は、私は食べたことはありませんが、写真で見るととてもおいしそうです。しかし、フグの卵巣という猛毒なものを、糠漬けにして無毒にして食べたということは、本当にすごいことですね。

 日本は、発酵食品の種類も他国に比べて、ずば抜けて多いと言われています。
 日本は、四方を海に囲まれて良質の水、米、塩、魚に恵まれており、発酵食品を作る工夫や技術もあったと思います。もちろん、貧しさもあり、ものを大事にする風習もあるでしょう。どこの家でもぬか漬けという発酵食品があり、これがあるとご飯の3杯は食べられたものです。

 日本で一番の発酵食品は、日本酒でしょう。加えて、味噌や醤油、みりんを加えると、日本がいかに発酵食品に恵まれているかが分かります。
 日本人が男女共に世界一の長寿国であるというのも発酵食品大国であるということと無縁ではないかもしれません。

 日本に古くから存在した発酵食品と大事に付き合っていきたいものです。

銀座ファースト法律事務所 弁護士 田 中   清

女性の髪の毛を洗う頻度、今・昔

洗髪の回数は、平安時代は年1回ほど、江戸時代~昭和戦前は月1~2回ほど、1955年頃は、5日に1回ほど、1980年代は、週に2~3回ほど、1995年ころ以降は、ほぼ毎日(10-20代女性)、2015年ころ以降は、ほぼ毎日(10-50代女性)だそうです。

それでは、平安時代から昭和戦前まで、年に1回や月1-2回程度で我慢できたのでしょうか?洗髪頻度が週2-3回になるまではどうしていたでしょうか?

正解は、クシやブラシで髪を梳かす(とかす)ことで対処していたと考えられます。平安時代から江戸時代までの女性は、長い髪が多かったので、梳かして髪の汚れを落とし、毛流れを整え結うなどしてまとめる以外に、頭皮の皮脂を積極的に毛髪に移して脂肪酸などに変質するのを抑え、頭皮への刺激やニオイを軽減する効果したのだと考えられます(頭皮の皮脂が脂肪酸に変質すると臭くなります。)。

梳かすことではニオイは完全には抑えられず、御香を使ってニオイ消しをしていたという記述が古くから見られるそうです。
 髪に移した皮脂は髪を整え束ねるのにも活用されていました。クシ通りや纏まりを良くしたり、髷を結ったりするためには、さらに椿油などの液状の油や固形の油が使われました。

洗髪頻度が低い時代は、束ねてまとめたり髪油を使って結い上げる髪型が主流でした。束ねずにいると、汚れていて、髪の感触が悪かったり、毛流れがバラバラに乱れてまとまらなかったのではないかと想像されます。髪を束ねないサラサラスタイルが主流になったのは、洗髪頻度が高くなり、お手入れ方法が変化したごく最近のことといえます。明治時代までは、皮脂や髪油といった油性の汚れを落とすために粘土や火山灰を使用したり、洗い上がりの感触を良くするためにふのり・卵白などが使われました。
 大正から昭和初期にかけて、髪洗い粉(白土・粉石けん・炭酸ソーダなどを配合したもの)が出回り、1930年代に、安定した性能と品質の固形石けんが発売され、1955年粉末シャンプー、1960年液体シャンプーが発売されて普及し、現在に至っています。

1960年以降になると、どの家庭にも内風呂ができるようになり、1968年には内風呂率70%以上になったということです。更に、「花王フェザーシャンプー」という液体シャンプーの登場は、画期的で、「5日に1度はシャンプーを」が宣伝文句だったようです。
要するに、それまでは、月1~2回しかシャンプーをしなかったということだと思います。したがって、5日に1度のシャンプーを消費者にしてもらえれば、画期的に売上が上がったことでしょう。

洗髪頻度がまだ週1~2回程度になった頃の関心は、「フケ・かゆみ」防止で、洗浄機能に加えて、フケ・かゆみ防止効果成分として、消炎剤や抗菌剤が配合されるようになったそうです。
今の女性にとって、月に1度の洗髪なんて考えられませんね。


銀座ファースト法律事務所 弁護士 田中 清

古来より語られる『鬼』とは


この日本に住んでいて、『鬼』という存在を見たことはなくても、この言葉すら知らない、聞いたことがないという人は、なかなかいないのではないでしょうか。
誰もが知る節分という鬼を追払い、福を招き入れるという行事があったり、来年のことを話すと『鬼が笑う』なんて言葉もあります。
それだけ生活に根づく存在だともいえます。

特に最近何かと話題の『鬼滅の刃』も、大正時代を舞台にして家族を鬼に食い殺された主人公の話がベースとなっております。
海外ではこの『鬼滅の刃』のことを『DEMON SLAYER』と訳しているようですね。
『DEMON』つまりは悪魔のことになりますが、また鬼とはニュアンスが違うように感じます。

鬼という言葉は、日本古来、古くは飛鳥時代からあるようです。
先日放送された歴史秘話ヒストリアでは、『大江山鬼退治なぜ人は鬼を討つのか』というタイトルで語られました。
数々の鬼退治伝説の裏には、疫病が関連しているとのことでした。
目に見えない恐ろしい疫病を鬼という姿を借りることによって、人々は退治に向かい、時には祀ったり、退散を願ったり、様々な方法を行ってきました。

さて、今年も終わりに近づいてきましたが、これだけ医療が進んだ世の中であっても、今年はコロナ禍で我々の生活は一変しました。
それは、日本だけの話ではなく、世界全体が生活様式を変えることを余儀なくされました。

そんな中でいわゆる『鬼退治』をテーマにした『鬼滅の刃』は、単行本は史上最速で1億冊を突破し、映画もとうとう興行収入が300億円を超え、まだまだ記録は伸びることでしょう。
また、今年の流行語大賞のベスト10にも当然ながら入りました。
さまざまなコラボレーションもあり、経済効果は約2700億円にも上ると言われております。

古来より伝承される『鬼退治』と重ね合わせるのは、いささか強引ではあるようにも思えますが、戦後最大の不況の時期に、まさしく救世主であるとしか思えません。

来年は、人々を襲う鬼たちがワクチンという刃で退散してくれることを祈るばかりです。

銀座ファースト法律事務所弁護士田中清

津田梅子ら、岩倉使節団の女性随行者3名について

明治になってまもなくの明治4年から明治6年まで、日本から派遣された岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された使節団が、欧米12か国に派遣されました。これを岩倉使節団と呼んでいます。
この中で特筆すべきは、山川捨松、永井繁子、津田梅子という3人の女性が含まれていたことです。津田梅子(6歳)、永井繁子(10歳)、山川捨松(11歳)でした。あとの2人は、病気やホームシックで帰りましたが、津田梅子、山川捨松などは、10年近く長く外国に逗留しました。

明治政府は、明治5年に明治学制を定め、男女共に教育が必要であると定めていました。ここで、女性にも教育が必要であると学制で定めていたことが重要であり、明治維新を推進した人たちが女性教育を重要なミッションとして考えていたことに驚きます。
山川捨松は、帰国後、英語、フランス語、ドイツ語を駆使し、社交ダンスも上手であり、その上美人でしたので、「鹿鳴館の花」といわれるようになりました。彼女は、10 年間の留学期間も過ぎ、津田梅子と同時に帰国しました。帰国した山川捨松らは、ほとんど日本語を忘れてしまい、わずかに「ねこ」という単語を覚えているのみだったそうです。

山川捨松という名前は、留学に際し「お前を捨てる。しかし無事に帰ってくるのを待つ」ということだったようです。留学中の捨松の成績はとても優秀で、日本人女性としては初めてアメリカの大学を卒業したそうです。捨松は留学期間を1年延長し、1882年(明治15年)に11年の留学生活を終え、帰国します。後に、軍人の大山巌と23歳で結婚したそうです。当時の女性の結婚適齢期は17~20歳であったため、23歳という年齢は適齢期を過ぎた女性と扱われたそうです。

津田梅子は、女子英語塾を創設し、山川捨松も、その後女子英語塾の経営に携わったようです。また、津田梅子は、津田塾大学(女子英語塾)の創始者として、余りにも有名ですが、独身のまま一途に学校経営にその生涯を捧げたそうです。
永井繁子は、アメリカでは音楽を専攻したため、帰国後、官立の東京音楽学校(現東京藝術大学)・東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)で音楽と英語の教鞭を取り、ただ一人の女性教授の地位となったようです。
 この3名は、女性として、本当に素晴らしい人生を歩まれたものだと尊敬をしています。



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